JG 「神愛-心の使い方。辛抱」
昭和五十四年八月十五日 朝の御理解
御理解 第九十節 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつ かしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらう のぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆく うちには徳が受けられる。」
なる程信心は上から下へ流すようなものではないですね。どんなにみやすいというてもそんなものではない。やはり下から上へ水を流すようなものが要るのです。
それは匹夫の凡人から開くのじぁから、とおっしゃるように私共のいうなら、めぐりの深い私共、いうなら我情我欲の強い私共が、その我情我欲を無くしていこうという道なのですから。只、問題は、我情我欲が取れてゆく事が有り難いのであり、楽しいのであり、それが愉快にまでなってくるというのが合楽理念なんです。そういう道づけをするのが、ね。
だから上から下へ水を流すようにみやすいという事ではない。先日の御理解その前の八十二節、此方の道は傘一本で開ける道、といとも簡単に説いてありますけれどもその一本の傘を頂くという事がいうなら、傘一本とは安心と頂きましたが、心の中に安らぎが生まれる。どんな場合であっても驚かんですむ。どんな場合であっても、これがおかげになるという確信できるような生き方ができたら、そこから道が開けてくるというのですよ。
だから、信心というのはいうならば、とにかくやはり、稽古なんです。そして物事は難しい事もあるけれども、そこん所はそこん所を乗り越えてゆく、辛抱してゆく中には徳が受けられるとあります。
その徳が受けられるという事が、いうならば、願目でなからなければなりません。 いろんな問題、いろんな難儀を通して、その難儀と思うておったおかげでお徳を受けた。そして結局は難儀というものは無いんだ、あれは神愛であった。こういう素晴らしいあの世にも持って行ければ、この世にも残しておけれるという程しのものを、頂く事の為であったというような事がだんだん分かってくるわけですよね。
私は今朝方から面白い、面白いというかやっぱり面白い夢を頂きました。私と家内が何かこう、こじんまりとした何か商売をしているんです。表は一枚ガラスのガラス戸がこう閉まっておる。その丁度外は雨のようです。そこに、ガラスの向こうに外人のまあ物もらいというかね、まあ乞食。レインコ-トのような物を着てはおるけれどもみすぼらしい恰好をして物乞いをしてるわけです。
でもはじめの間は私共もしらん顔をしとったけれども、でも腰々と何か折りたたみ式の椅子のごたるとば出して、ごしごしと腰をおろして目に涙をいっぱいためながらどうぞ恵んで下さいというふうに致しますからあのう「いくらあげたらよかろう」と私が申しましたら家内が「千円硬貨をあげましょう」と大分千円硬貨ちゃないですけれども、千円硬貨を一枚あげましたら、大変喜んで自分の財布の中にこう、ちゃらんちゃらんと入れるんです。
そして中に入って来てから「はあ、ここはいろんな物が売ってあるんですね、これを一つ頂きましょう」というてその乞食が物を買うんです。買うたら途端にお客さんになったんですよね。態度が。そしていう事が「すみませんけれども電話を貸してちょうだい」というて電話をかけるんです。どこにかけるかと思いよったら、イギリス英国の自分の本国に娘が居るから、そこに電話をかけるとはいうて電話をかけておるんです。
そしてその話の内容がね、私共はあっけにとられてそれを見ておりましたら、何をしてもね、何をしてもやはり雨もありゃ風もあるよて、そこを辛抱していく事だよ。 でなかったら成功はない。私は今日本で大変幸な生活させて頂いとるが、日本は今丁度雨降りだけれども、やっぱり仕事に励んでおる。だから何をするにも、あんたのようにそんなにあのう、悔やんだり困ったりしてはいけん。電話で娘にいろいろいうて聞かせよる所。わたしゃ、日本で大変幸にしております。何をするでもね、やっぱり雨もありぁ風もあるよち、そういう時ほどおかげが頂かれるんだと。
やっぱ物もらいでも雨の日にレインコ-ト着てから「ああしるしかろ」というて、かえって実入りが大きいという事でしょう。ね、そういうお夢であった。
外人という事は、結局外の人という意味だろうと思いました。そしてこれは、何をするにも例えば、何の稽古をするにもです、なら一財産築くという事であってもですやっぱ人並以上の辛抱が要るという事。お母さんは乞食をしながらとはいってはおりませんけれども、日本で大変幸にしとる。今日は日本は丁度雨降りだけれども、それでもやっぱり仕事に出ておる。とにかく幸だ。
とにかく乞食を三日すりゃ止められんといったような幸を感じておるのでしょう。 だから向こうの娘も又乞食をしとるのかもしれません。その娘にいっておる事がそういう事。雨が降るから風が吹くからというてへこたれてはならんよ。そういう時ほど実入りが多い時だ。そしてその事に喜びとか楽しみを感じなければね、いけないよという御理解のような事を娘に電話かけておるような様子でした。
もらう時には乞食だけれども、そこで商品を買ったら途端にお客さんになっておる そして電話をかけさせてちょうだい、というわけで電話をかけておるもようが、そういう事であったけれども、ね。
私はそういう外の人という信心のない人達の中には、そういう人達ばっかりじぁないかとこう思うんです。自分の頼む時や物もらう時には、もうそれこそ目に涙を浮かべて哀れを催すような、上手にもらっておるけれども、ひとたびそれが頂いて終わって喜んでその後に、そこで商品を買ったら途端にお客さんになっておる。ね、
そういう態度の人が、ずいぶん人間の世界にはあるんじぁないだろうか。そして、なら、電話をかけておる内容から、私が今日思わせて頂きますのがね、これは何をするでも、例えば、乞食をするでも辛抱が要るという事なんです。三日すりゃ止められんという程しのいうならば、乞食の味わいというものを味わう為には、やはり辛抱が要るんだよとその娘に電話をかけておる。
だから、なら、何を稽古するにもいうなら身につけていくにしてもです、その辛抱が出来なければ出来ませんがです、折角辛抱しぬかせて頂くならばね、本当に自分の心が助かるね。乞食のような平身抵頭しとるかと思うたら、ちょっと都合がようなりゃすぐ、頭を持ち上げる、いうならば、偉ぶるといったような生き方ではなくて、いうならば、稔のれは稔るほどかがんでおれれるような心の助かり。ね、
私は、心の使い方の稽古が信心だと思うです。乞食をしても辛抱が要る。いうなら何一つ覚えてもそうです。今日私は、御心眼に御祈念中に南伸助という何がおりますね。あのう、テレビによくでます。あの人が髪の素の宣伝をしてますよね。そして女の師匠さんから踊りを習っておる所の二人でこう並んで踊っておる。そして踊りながら、同じ様子の髪が素晴らしく見事に結い上げてあるので、髪に見とれておる所「ほらあなたは」と注意を受けておる所がテレビにでておるでしょう。その場面を頂くんです。踊りの手を止めて、そのお師匠さんの髪がきれいに結い上げてある、きれいな髪に見とれておる。これでは稽古になりませんよね。
お互いの信心の稽古をさせて頂きながらも、いうならば、今申しますように心一つで総てを創る、心のこなし一つでおかげになるならんが決まるのです。
心のこなし。いうならば舞踊。踊りなんかもそうです。もう本当に稽古に稽古を重ねた上にもです、形の上ではすぐ覚えてもその姿のこなしというかね、体のこなしが身につかねばよい踊りとはいえません。又自然と体のこなしが出来るようになるようにね。信心もね、結局心のこなし方の稽古なんです。
だからその心のこなし方でもです、今日は雨が降るけんでもう御無礼しょう、今日はこげな事情だからといったような事ではなくてね、それこそ日々の稽古がいつの間にか、自分の心にどういう事が起きてもどっこいと受けとめられる心。又は合掌して受けれる心。ね、
普通の人は、不平不足をいうような事柄であっても、有り難いとお礼のいえれるような心のこなしを稽古するのですから、髪にどん見とれとったつじぁ稽古はでけんという事。
まだ、三代金光様がお若い頃に、福岡の吉木先生がまだ壮年教師としてあのう御本部で信心の研修があった。そん時に金光様がお話になっておるものをガリ版ずりにして頂いてきておられる。ずいぶん私が福岡で修行中の分ですから、大坪さん他の者には見せられんけれども、あんたに見せるというて見せて頂いて本当に感激した事があるんですけれども。その時の金光様のお言葉がずうっとその書いてあるんです。
それには、素晴らしい非常に霊徳の面にも著しいあのうおかげを受けておられたという事ですね。三代金光様は。その金光様が死霊とか生霊とかを拝んでおられる時分 私もそんな時代がありました。死霊生霊を肉眼で拝むという時代があったんです。 それでお話になっておるのにですね、先日、ある教会の00という先生が御参拝をしてみえました。そしたらお賽銭箱のまわりをぐるぐる廻っております。又は、お供え物のまわりをぐるぐる廻っておられます。どこの先生だろうかと思うたら00教会の先生でした。というておられるです。だから、こういう先生はおかげを頂きませんとおっしゃった。お供え物とかお賽銭箱、いうならば、南伸介の髪を見とるようなものじぁないでしょうか。けれどもね、ある時、私のこのお結界のぐるりをぐるぐるまわる生霊の事をおっしゃっておるのです。あるんです、どこの先生だろうかと思うたら00教会の先生でした。こういう先生ならお徳を受けますとおっしゃったそうです 金光様のあの素晴らしいお結界の御奉仕の姿というものにです、そして袂に触れたりね、羽織に触れたりするんだそうです。金光様の信心に触れたい。そういう先生ならおかげを受けますとおっしゃったそうです。ね、
なら、合楽教会にもです、私は南伸介のそれじぁないですけれども、はあ、とにかくお参りは多いがお参りが多いという所にだけそのまあ、合楽、合楽というて参ってくる先生方もあるのじぁないでしょうか。お供えが多いというお供えに只見とれて参ってきておる先生があるかもしれません。信者があるかもしれません。
こういう、なら、おかげの根本にはどういう信心があるのだろうかと、その信心を追求する生き方にならねばおかげにはなりません。徳にはなりませんという事になるのじゃないでしょうか。
お互いに持っておる難儀そのものを通して、なら、それこそしるしいからきついからね、まあ、お参りするわけですけれども、そのお参りしながらもです、その、おかげのいうなら、大元になる信心を私共が頂かせてもらう。なる程みやすいものではない。上から下へ流すようなものではない。信心はみやすい。それは下から上へ水を流すようなものだけれども、そういう、いうなら難儀とか問題とかある。けれども辛抱してゆく中に徳が受けられるという。只、辛抱している中に徳が受けられるという信心をしなければいけない。
だからその辛抱がですね、いうなら、踊りの一人前になるにはやっぱり辛抱しなけりゃならんでしょう。乞食でも辛抱が要るんだというてます。だからお互いがどういう所に焦点を置いて辛抱するかと。
只、財産を作りさえすればよいという人は金儲けにそれこそ、人が寝とる時でもじっとしちゃおらん、人一倍働くでしょう。けども、結果において頂くおかげがです、只、おかげにとどまっておるというのではなくて、信心によらなければ頂けない、ねあの世にも持って行ける程しのもの、又それを残しておける程しのものを頂くという事が信心の願目です。
乞食ですから雨の降る時の方がかえってもらいが多いといっておるんです。ね、信心においておやです。だからお互いが折角信心辛抱させて頂いておっても、只、おかげだけに眩惑されるという信心ではなくて、そういうおかげの根本の所をどこにあるのか。私共がいつも研修の時に阿部野の教会とか、玉水の教会とかいう大変すごい、いわゆるマンモス教会といわれる程しの大きな教会、沢山の信者が助かっておる教会が大阪にございますが、只、そのうあれよあれよというて助かっておる人が集まっておるという所には私共は目もくれません。そういう信心がどこから、あの先生のどこからそれが生まれてくるかという事を、いつも研修の時に追求致します。ね、
皆さんとてもそうです。折角、辛抱させて頂くのですから、その辛抱がです、合楽理念によっての辛抱だとその事が楽しゅうなるです。下から上へ水を流すという事は大変な難しいような事ですけれども、難しい事が難しゅうあればある程にです、楽しゅうなるです。有り難うなるです。
自分の心のこなしが自由自在に出来る稽古をさせて頂くとです、もう総てが有り難い、勿体ないで受けとめて行けれるような稽古がでけてくるんです。知っただけではこなしが出来ません。踊りの手を覚えただけでは、身のこなしはできません。
稽古に稽古をして何ともいえん踊りの姿というものがね、こなすという事は教えようとしても教えられない。調子というものは、これが何の調子だよというてもです、聞いてすぐ分かるというものではありません。稽古をしている中にです、ははあ、こういう調子だなあという事が分かってくるんですね。
だから何の稽古をさして頂くんでもそれなのですから、信心さして頂いてね、信心のおかげを頂きたいなら、そのおかげの大元になる所の心。その心の状態をどこに向けるか。真の信心とは、という所に目を向けさせて頂いてね、それはね、なかなかおかげが思うように頂けないけれども、そういう頂けない時こそがです、いうならば、身に徳を受ける、辛抱してゆく中に徳が受けられるとおっしゃる。ね、
その徳を受けて行く事が自分の心の中にも感じられる。それが有り難いのである。 それが楽しいのである。それがね、それこそ信心の喜びというもの。それこそ信心の驚きと信心の喜びと、いわれるように日々を驚くような心の状態。神様の働きには恐れ入ってしまうなあ-というね、その驚きを感じながらの信心が出来るようにおかげ頂きたいですね。
どうぞ、私が今日頂いたお夢の事、南伸介さんのそのテレビを気をつけてごらんなさい、それがあります。ね、踊りを踊りながら髪に見とれている。私共も信心の稽古といよるがその髪に見とれておるような事じぁないだろうか。只、おかげ、おかげの所だけに眩惑されとるのじぁないだろうかというような事を、もう一ぺん改めて思うてみてもらいたいと思う。
どうぞ。